後輩へ
僕のことをよく理解していないようなので私的見解を述べたいなと思います。
まず、僕の根底にあるものは狡猾さです。
それ以外におまけ程度の優しさとユーモアがあります。
人に優しい口調で話すよう心がけてはいますが、当然、怒る時もあります。
空気が読めません。故に失礼なことを平気で言います。
自分の存在をよく理解していないので立場を忘れます。
人の気持ちを考えるのが苦手なので大体の場面でその時一番選んではいけない言葉を選んでしまいます。
先日の一件も9割僕のせいです。意地でも10割にはしません。
バンドをクビにするって通達が来た時、正直ほっとしました。
まあギターとは最近険悪だったし当然だろうと思ってたけど、ギタボも賛成していたのは正直驚いたし、少し胸が痛かった。これも必然だし自分のせいだから仕方ないと思っている。
責任ってほどでもないけど、卒ライに出れるような資格はなくなったと思ったし、自分も逆の立場ならなんで出てるのか不思議でならないと考えると思うので、卒ライは参加自粛します。憎たらしい顔を見ずにみんなで楽しく仲良くライブが出来るならば本望なので(これはマジ)
二年生は世代交代して色々頑張ってくれてるらしいし特に言うこともないので卒業式後に少し立ち寄って、色紙が"あれば"貰って立ち去ろうと思います。直接言える機会が無いかもしれないので先に言っておきます。
2年間ありがとう。今の二年生がいて良かったです。受験勉強や卒業制作など忙しくなると思いますが、健康に気をつけて頑張ってください。
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変わることが難しいだなんて誰が言ったのか。昨今の世の中は難解なものに溢れている。
全てに対して細かい名前が付けられ区別され、枠組みが増える。
変わることが難しいのなら何故このような目まぐるしい速度で全てが変わるのか。
答えは簡単、身近にあるものの変化に気づかないからである。
変わることが難しいのではなく、変化に気づくことが難しいのだ。
変化を変化と受け取れず、それが当たり前でそれが元からあるものなのだと錯覚しているのだ。
信号機も車もバスも電車も飛行機も、ましてや人の変化にさえ気づかない。
その一部の人達に対して、外に興味がない、自分のことで精一杯なんだなと思った。
青春の曲
中学、高校と世で言う青春時代を謳歌している時に聴く曲というのは人間性と価値観にとても多大な影響を与えるんだなと最近思いました。
元から暗い部分がある僕は暗い曲を聴いてジメジメした思考に捕らわれていて、そんな中にRADWIMPSやandymori、或る感覚などを聴いて、卒業していった先輩達のことを思い出して、当時僕は観客席で憧れていた1人に過ぎなかったんだなと考え、今僕はとても恵まれているんだなと思う反面、懐かしい思い出と先輩たちの温かさを思い出して少し複雑な気持ちになってしまいました。
でもそんな先輩達が居たから僕は楽器を続けられ、楽しい思い出も面白い後輩と人や物に囲まれているんだなと。
きっと先輩達が卒業したことも僕にとってはいい思い出でいい体験だったと。
全てが愛おしく思えるのも先輩たちのお陰なんだなと。
そう思える自分を作ってくれた先輩方に陳謝しながらこれからに向かおうと思いました。
期待
大した人間じゃないと自分で自分自身を見て思う時があって、自信が持てない。
他人から見られる自分は大層な人間に見えるようで自信を持ってくださいと言われる。
暗い顔しても暗いこと言っても他の人から見たらめんどくさいだけなのも承知の上なのだが、それでも言うだけなら許して欲しいだなんて思います。
ただきっと元気づけようとしてくれているんだと思うとそうやって斜に構える自分がとても醜いなと思ってしまいます。
他人を信じるべきか自分を信じるかという難題に迫られその中でもがいて苦しみましたが、最近後輩に言われた一言で他人を信じてみるのもいいことだなと思いました。
きっと僕の高校生活の中でこれほど嬉しいことはないと心の底から思いました。
生まれ変わったような気持ちでした。
少しでも自分を見てくれる人がいるなら、僕は僕であり続け自信を持ちたいなと。
そんなお話です。オチはないです。
作曲の進行具合
後期中間テストの勉強期間ではありますが、ひっそりと内緒で1人勉強の傍、作曲をしておりました。
ここ最近は秋の夜長とさやけさにやられ、哀しくなることがありますが、そんなことも四季折々の感情で風情だなと思います。
そんな感情と季節の流れを比較し、感じるために曲にしました。自分の心情と環境の変化も歌詞に込めたので歌っているだけで色んな思い出が蘇ります。ものすごく嫌な歌です。しかし嫌いじゃありません。むしろ愛おしいと思うほどに完成されています。
素直じゃなく捻くれた、不幸を背負って歩こうとしている人たちに是非とも聴かせたいです。
人、物、人
人は人を見たとき、話をするために相手がどんな人なのか分析し、情報を得て生きていますね。
人は物を見るとき、どうやって使うものなのか、または誰のものなのか、どこから来たものなのか等、いろいろ考えて情報を得ますね。
人は内面的要素を孕んでおり、日々移り変わるものですが、物は内面的要素はなく、外面的要素をただ見せるだけで考えることなど出来ません。(現在の時点で)
なので人は物を外見で判断します。
人のことも外見でしか判断を下せない人は、人を物としか見ていない人なのです。
だから私はそんな人達が可哀想でなりませんし、考えることをやめているそれらを思うと、とてもつまらない人生を送っているんだろうなと同情してます。
そして自分は人を知るとき、外見ではなく内面を見ようと改めて思うのです。